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片栗の花

東欧諸国 世界遺産へ旅

東欧(ドイツ、チェコ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、ポーランド)
1 ベルリン市内観光 ブランデンブルグ門、ペルガモン博物館、ベルリン大聖堂
2 ポツダム市内観光 サンスーシ宮殿、ツェツィリエンホフ宮殿 (世界遺産)
3 ドレスデン市内観光 ツヴィンガー宮殿、センパーオペラ、君主の行列、劇場広場
4 世界遺産プラハ観光 プラハ城、カレル橋、聖ビート教会、黄金の小道
5 ウィーン市内観光  世界遺産シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿
6 ブラチスラバ ブラチスラバ城 ブダペスト漁夫の砦、王宮、マーチャーシュ教会
7 【世界遺産】クラクフ市内観光  聖マリア教会、ヴァヴェル城
8 【世界遺産】アウシュビッツ強制収容所 【世界遺産】ヴィエリチカ岩塩坑
9 【世界遺産】ワルシャワ市内観光 聖十字架教会、キュリー夫人の生家
10 ワルシャワ発ーコペンハーゲン経由  
11 成田着  

4月6日(木)ドイツ
ベルリンは北緯52度です。日本最北端宗谷岬は45度より北です。
時差は8時間ですが、サマータイムのため7時間遅れです。

ブランデンブルグ門
ベルリンの正面玄関に当たり、ベルリンのシンボルとされる門です。
1791年プロイセン王国の凱旋門としてアクアポリスの神殿を形どり建てられた。
門の上には4頭立て騎馬に乗った勝利の女神ビクトリア。
東ベルリンに属し、「ベルリンの壁」が建設され門には誰も近づけなくなった
壁が崩壊し東西ドイツが統合の時、この門の前で数十万人の市民が歓喜にむせんだ。
ブランデルブルグ門

ペルガモン博物館(世界遺産)東ベルリン
古代(ギリシャ・ローマ)、中近東、イスラムの展示物があります。
トルコで発掘した紀元前2世紀ヘレニズム期ののペルガモンの展示物で有名。
博物館入り口

『ゼウスの大祭壇』(紀元前180-159年)で、原寸そのまま
zザウス神殿 ゼウス神殿2
バビロンのイシュタール門 (紀元前560年頃)
イシュタール門

ライオンの装飾煉瓦壁(前575年頃・トルコ)
ライオン
その他
ペルガモン2 ペルガモン3 ペルガモン4 ペルガモン5

高さ114mもの大天蓋を持つベルリン大聖堂
巨大なルネッサンス様式の教会。ホーエンツォルレン王家の記念教会。
週末の夕方にはコンサートが開かれることもあるそうです。
ベルリン大聖堂

ベルリンの壁

市内の壁にはいたるところ銃弾の痕と落書きがありました。
落書きを消さないのはどうしてなんでしょうか。
気にしないのか。消してもすぐ書かれるなのか。
自己主張だとして許容しているのでしょうか。

ホロコースト記念碑は落書きがすぐ消せるようなコーティング処理を
施しています。設計者は落書きを許容したかったようですが
ナチスマークを書かれることを恐れやむなくと言われています。

銃痕落書き

ベルリンの壁はわずかに残されているだけです。
意外に低く幅も薄く簡単に倒れそうな簡素なものでした。
腰掛でも持ってくれば簡単によじ登れそうです。
ブランデングブルグ門によじ登って壁をつるはしで壊すTVの
シーンがどうしても印象に残っていますから意外な感じでした。
ベルリン壁壁跡
           
ベルリンの壁
1961年から1989年の間に東ベルリンと西ベルリンを隔てる壁です。
東ドイツが建設した冷戦時代のドイツ分断の象徴です。
1989年に破壊され、現在は記念碑的に残されている以外存在しない。
ベルリンの壁はすべて東ドイツ領内に建設されていた。
ベルリンは西ドイツの飛び地で周りを旧東ドイツ国に囲まれていた。

ブランデングブルグ門近くのソ連解放記念の公園にある戦車の前では
子供たちが無邪気に遊んでいました。
戦車

巨大モニュメント 「ホロコースト記念碑
(ヨーロッパの殺害されたユダヤ人のためのメモリアル)

議会や大使館があるベルリンの中心地に2万平方mの広大な敷地に
墓標に見立てた石碑2,711基(高さ40cmから5m)を並べたものです。
17年かかり昨年5月に完成しました。(ヒトラーの地下壕もこのすぐ近く)
地下に資料館が併設され350万人のユダヤ人犠牲者の名が閲覧できます。

周囲に塀を作らずどこからでも自由に出入りし、通り抜け、子供の遊びも可。
中を自由に歩き回れるように車椅子が通れる95cm幅にしたそうです。
現在生きている私たちは死者の重さを担っている。
ここを日常の場にして死者を忘れないでほしいということでしょうか。
過去を現在につなげる異次元の通路、開かれたタイムカプセルなのか。
ホロコースト
首都の中心に作られる巨大な「墓石」
60年たった今でも近隣諸国への配慮を考え努力しているだけでなく、
ドイツ国民として絶対忘れてはならない(子供たちへも伝えたい)
という思いがこめられているように思います。
この墓標を原点にして前に進もうとしているように見えました。

翻ってわが国のありようを考えてみたとき ……   … 。
60年たったんだからもう時効だと努めて思い起こそうとせず、
隣国の人たちの受けた苦しみに思いを及ぼさないようにして、
隣国からは信頼されず、自身の行動にもどこかではひけ目を感じ
前に進めないでいるように思います。

ポツダム市内
300年以上にわたりブランデンブルグープロイセンの宮廷都市には
皇帝により次々美しい宮殿と庭園が作られました。
特にポッダムの庭園景観がユネスコの自然文化遺産に登録され、
総計27に及ぶ宮殿博物館に世界中から毎年200万人が訪れます。

ツェツィリエンホフ宮殿(世界遺産)
1917年建造。最後の皇太子と皇太子妃ツェツィリェの邸宅
1945年ポツダム会談が行われ日本の処理を話し合った会場です。
ツエツイリエンホフ宮殿 ツエツイリエンホフ宮殿ツエツイリエンホフ宮殿
ポツダム宣言 日本への無条件降伏の勧告をしたが日本は無視し、
広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦によりついに日本はポツダム宣言を
受け入れ終戦を迎えました。

サンスーシ宮殿、 (世界遺産)
1748年プロイセン王のフリードリッヒ大王が夏の離宮として建てたが、
ここが居城となった。サンスーシはフランス語で「憂いのない」の意。
サンスーシー宮殿サンスーシー宮殿
宮殿前の回廊
ツエツイリエンホフ宮殿回廊
歴史的風車
1791年建造したが消失し1993年ポツダム千年祭に再建された。
歴史的風車

4月7日(金)ドレスデン(ドイツ)
ドレスデンはエルベ川のほとりに佇むバロックの古都です。日本の京都です。
エルベのフィレンツェ」とも呼ばれ、芸術と文化の香り豊かな美しい都です。
ゲーテは幾度かこの地を訪れヨーロッパのバルコニーと呼んだエルベ川沿いの
ブリュールのテラスを散歩しました。
森鴎外は5ヶ月間滞在しドレスデンを舞台にした『文づかひ』を書きました。
2004年歴史的建造物の残るエルベ川沿いが世界遺産に登録されました。
2002年夏の洪水により大きな被害を受けましたが、今年も洪水で土嚢が
積まれていました。
エルベ川

ドレスデンは、ザクセン公国の首都として17~18世紀が最盛期でした。
ヨーロッパ世界とトルコ、中国、日本とを結ぶ文化交流の舞台でした。
18世紀アウグスト強王が東洋の白磁に魅せられ欧州で初めて陶磁器を作り、
マイセン磁器は有名です。
現在はドイツのザクセン州の州都で人口約50万。
第2次世界大戦の空襲で徹底的に破壊され
現在のものは以前と全く同様の姿に復元したものです。

ツビンガー宮殿 Zwinger
バロック建築が建ち並ぶドレスデンの中で最高傑作とされる宮殿。
アウグスト強王の命により1710~1728年にかけて建造された。
金塗りの王冠を頂く門は、この宮殿のシンボル
ルーベンスやラファエロの絵画、陶磁器博物館などとして利用されている。
ツビンガー宮殿門 ツビンガー宮殿ツビンガー宮殿

君主の行列
君主の行列
アウグスト2世とアウグスト3世アウグスト王

ゼンバー・オペラハウス
ワーグナーの『タンホイザー』やシュトラウスの『サロメ』等が初演されている。
800の数字はドレスデン建国800年
オペラハウス

右:カトリック旧宮廷教会左:レジデンツ城
カトリック教会

聖母教会
バロック様式の石造建築物の傑作といわれたプロテスタント教会1743年
空襲で破壊され、平和運動のシンボルとして瓦礫はそのままでした。
オリジナルの瓦礫をひとつひとつジグソーパズルのように当てはめて、
戦争で壊れた教会をもとのままに再建しようと1万個の瓦礫を組み合わせ、
「世界最大のジグソーパズル」を12年の歳月をかけ昨年修復完成しました。
爆撃をしたイギリス、ナチス被害国ポーランドが再建に協力しました。
聖母教会

*建物は石造です。砂岩で中に砂鉄が混ざり酸性雨のため硫化鉄になり
 すぐ黒ずみます。作られたばかりと雨に当たらない部分は茶色です。

ドレスデン大空襲(戦後東ドイツ領)
ナチス降伏直前の1945年英軍の2波(1回目で混乱の極みに陥った所に
2回 目の攻撃を加えて人々を殺す非情な作戦)での焼夷弾による無差別絨毯爆撃。
さらに廃墟となったドレスデンめがけて、アメリカ軍は機銃掃射、爆弾を投下し
文化都市ドレスデンは瓦礫の街になり壊滅しました。
空爆による死者は公式で約35,000人(当時東欧などの100万人避難民が
流入していたとみられ犠牲は13万人ともいわれている)
終戦間近で軍事施設の何もない文化都市ドレスデンへの攻撃は
ナチスによるロンドン空襲の報復とも言われています。
犠牲になったのは、戦闘能力のない女性や子供、年寄りであったことでしょう。

4月8日(土)プラハ(チェコ)
ヴルタヴァ(モルダウ)川のほとりにあるプラハは14世紀にボヘミア王
カレル4世が神聖ローマ皇帝となり大きな発展を遂げました。
「黄金の都」「北のローマ」「ヨーロッパの音楽学院」「建築博物館の街」
と呼ばれる「世界遺産の歴史の街」です。

カレル4世が建立したプラハ城 は歴代王の居城です。 (現在は大統領府)
プラハ城

聖ビート教会と中にあるステンドグラス
ビート教会ステンドグラス

錬金術師が住む黄金の小道には文豪カフカの住んでいた家があります。
カフカはプラハで宝石商を営むユダヤ人の家庭に生まれました。
不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品を書きました。『変身』
カフカ骸骨

旧市庁舎の天文時計とティーン教会前の広場には多くの観光客がいました。
 ゴシック様式のアーケードとルネサンス様式の美しい飾り屋根
ビーン教会

ゴシック様式で石造りのカレル橋(全長520m、幅10m)
ヴルタヴァ川の洪水により橋が流されカレル4世は石造りのカレル橋を作らせました。
完成まで60年、以来600年洪水にたえて現在に至っています。
カレル橋には30人の聖人の像が建ち並んでいます。フランシスコザビエル像もあります。
カレル橋

モルダウ川のほとりをスメタナの『わが祖国』を口ずさみながら歩きました。
モルダウの川の流れを見おろしているスメタナの像の前でチェコビールを飲みながら
スメタナが懐いたであろう激しい思いが、こんなにも和らげて謳いあげた詩の
中にこめられている様に思いました。
右端はスメタナ記念館、後ろの橋はカレル橋。
スメタナ

地下鉄でホテルまで帰りました。切符は必ず乗る前に買い、改札機で
時刻を刻印して乗ります。不正乗車も出来ますが検札で不正が発覚すると
理由に関らず高額の罰金だそうです。(多くのヨーロッパの都市も同じ)

スメタナ 交響詩『モルダウ』わが祖国
  (いまの学校の教科書に載っています)

懐かしき川よ モルダウの
清き流れは 我が心
美しき川よ モルダウの
青き水面は 今もなお

流れに優しく陽はそそぎ
漣はいつも歌うたい
岩にあたり しぶきあげて 渦を巻く

豊かな流れよ モルダウの
広き水面は 今もなお

春には岸辺に花開き
秋には黄金の実を結ぶ
愛の川よ しぶきあげて 流れ行く



懐かしき川よ モルダウの 岸辺には
豊かな幸が満ち溢れ
人の心はいつまでも
この川の 流れと共に行く
ふるさとの この川 モルダウよ
ふるさとの この川 モルダウよ

4月9日(日)ウイーン
シェーンブルン宮殿と庭園 (世界遺産)
ベルサイユと並ぶヨーロッパ有数の大宮殿です。(バロック宮殿)
シェーンブルンは(美しい泉)の意味です。(ダンケシェーンのシェーン)
1695年ハプスブルク王朝レオポルド1世が夏の離宮として建て、
マリア・テレジアは壁を黄色に、内装はロココ様式に改装しました。
ナポレオンやイギリス軍総司令部、ケネディ・フルシチョフ会談の舞台にも。

全部で1141室。マリー・アントワネットのいた部屋、6才のモーツァルトが
御前演奏した鏡の間、ウィーン会議での舞踏会の大広間などがあります。
ボヘミアン・クリスタルのシャンデリア、陶器の暖炉、世界中の風景の壁面も。
シェーンブルン宮殿 シェーンブルン宮殿
庭にはギリシャ神話の1シーンを表したネプチューン噴水
神話

ベルヴェデーレ宮殿(バロック宮殿) オーストリアギャラリー
ベルベデール門
       (門扉はユーロのデザインに使われています)
オスマントルコを追い払ったハプスブルク軍の総司令官オイゲン公の夏の離宮。
「ベルヴェデーレ」はイタリア語で「美しい眺め」の意味。
絵画館にモネやマネ、ゴッホの作品が展示されています。
ベルベデーレ宮殿スミレ ベルベーレ宮殿庭

4月10日(月)ブラチスラバ(スロバキア)、ブタベスト(ハンガリー)
ウイーンからブラチスラバ(スロバキアの首都)まで 68Km 1時間半です。スロバキアは1993年にチエコから分離独立しました。
 
ブラチスラバ城はドナウ川を見下ろす丘の上にあります。
塔が四隅に配置されていることから「ひっくり返したテーブル」と言われる。
交通の要衝として古くから栄え、ハンガリー王国の首都でした。
マリア・テレジアも居住(アントワネット母)現在は大統領官邸として使用され、
サミット会場にもなった。
ブラチスラバ城
旧市街で現地ガイドさん
旧市街
ハンガリー国王の戴冠式が行われた85mの塔を持つ聖マルティン教会
聖マルチン教会

ブダペスト(ハンガリー)  世界遺産 

王宮広場
  今ハンガリーは選挙期間で街中にはポスターが貼られていました。
  選挙の集会が行われるということで多くの人たちが国旗を持って
  集まって来ていました。
選挙

マーチャーシュ教会
  マーチャーシュが教会を増築し、2度結婚式を挙げた所。
  ハンガリー王がこの教会で戴冠式を執り行った。
マーチャーシュ教会
漁夫の砦
  回廊展望台で、魚市があった場所に造られたため、漁夫の砦と命名。
漁夫の砦
漁夫の砦から見たドナウ川
ドナウ川
英雄広場
 マジャル族建国1000周年に作った広場。塔の上には大天使ガブリエル、
 下にはマジヤル族7人の部族長、歴代の英雄14人の像が取り囲む。
 この広場からドナウ川に向かう並木道が世界遺産に登録されたアンドラーシ大通り。
英雄広場

ホテルからの夜景 手前はドナウ川
夜景

4月11日(火)クラクフ(ポーランド)
ブタペスト(ハンガリー)からクラクフ(ポーランド)へ380Km 6時間半です。
ポーランドの国境は雪が降っていました。クラクフ市内は雨、撮影が大変でした。

【世界遺産】クラクフ市内観光 

ワルシャワ遷都まではクラクフがポーランド王国の首都でした。
歴史・文化・芸術の都で戦争の被害も少なく世界遺産に登録されました。
映画『シンドラーのリスト』の舞台になった街です。
前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の法王の窓の前には写真が飾られていました。
中央広場
中世からそのまま残っている広場としてはヨーロッパ最大の中央広場です。
広場の中央にある反物の交易所であった織物会館(14世紀ルネッサンス式)
今ちょうど工事中です。
織物会館

聖マリア教会
1222年に建てられたゴシック様式の教会です。
モンゴル軍襲撃時この教会の窓からラッパを吹いて知らせましたが殺された。
それを悼み窓からラッパが吹かれます。その時と同じ途中までです。
聖マリア教会

ヴァヴェル城 現在もここで戴冠式が行われています。
バベル城

コペルニクスや前法王パウロ2世の出身校であるクラフク大学の中庭
クラクフ大学

4月12日(水)アウシュビッツ、ヴィエリチカ岩塩坑
今回の旅行の最大のというか唯一の目的は、一度は自分の目で確認したかった
アウシュビッツです。学生時代に読んだフランクル「夜と霧」(みすず書房)の
強烈な印象が忘れられなかったからです。戦争は人間をこんな行動にここまで
駆り立てることが信じられない思いでした。

150万人の命を奪ったアウシュビッツ強制収容所は広島の原爆ドーム
と同じく『人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産』
として、ユネスコ世界遺産に登録されました。
ここは今までの宮殿と違い、青少年の見学者でいっぱいでした。
ドイツからの見学者が多いそうです。館内には犠牲者のおびただしい
数の靴、めがね、義足、髪の毛などが展示されていました。
アウシュビッツ
【世界遺産】アウシュビッツ強制収容所
アウシュヴィッツはドイツ名です。(オシフィエンチム)
ナチス親衛隊SS(各地に強制収容所を多数作った)が占領地ポーランドに
当初は政治犯収容のために建設した最大規模の強制収容所です。
ユダヤ人だけでなくジプシー、政治犯、ソ連捕虜なども捕らえて処刑しました。
アウシュヴィッツだけでも150万人、全体では数100万人~1000万人とも。

門の上にはスローガンがあります。 Arbeit macht Frei 働けば自由になれる
入り口
多くの政治犯が銃殺された「死の壁」
死の壁

当時は両側の柵には高圧電流が流れていた。正面奥は監視塔です。
鉄条網

猛毒チクロンBを天井から注入したガス室と死体を焼いた焼却炉(半地下式)
ガス室

近くに建設された第2アウシュヴィッツ強制収容所がビルケナウです。
ここでも100万人以上の人が処分されました。
こちらは規模が大きいです。建物は粗末なバラックとトイレです。
バラック トイレ
多くののバラックは破壊され、煙突だけが残っているだけです。
バラック

死の門"と呼ばれるビルケナウ収容所の正門
 ここでは中まで列車の引き込み線が引かれました。到着した人々は、
 強制労働に耐えられるか、ガス室行きになるかの選別を受けました
引込み線ビルケナウ
              
映画「夜と霧」の最後の字幕

   遠ざかる映像の前で

   希望が回復したふりをする

   ある国のある時期の話と言い聞かせ

   絶え間ない悲鳴に 耳を貸さぬ我々がいる

写真
                    (外の看板に掲示されていた写真です)
現在では起こりえない遠い過去の話ではない。
今でも規模こそ小さく巧妙に包み込まれて同じようなことが起こっている。
我々が手をこまねいていれば、明日目の前で起こらない保証はない。

Holocaust, never agein  

室内は撮影禁止でした。写真、資料、リンクは次のサイトをご覧ください。
アウシュビッツ強制収容所


【世界遺産】ヴィエリチカ岩塩坑
10世紀頃から採掘がはじまり、地下300m、総距離300km
中世ポーランド王国の収入源の3分の1は塩だったそうです。
坑道と作業
坑道作業
岩塩での彫刻と現地ガイドさん
彫刻
地下100mの深さにある聖キンガ礼拝堂
  階段から足もとのタイル、シャンデリア、中央の祭壇、周囲の壁の彫刻
  すべて岩塩です。日曜日のミサや結婚式などにも使用されます。
キンガキンガ

4月13日(木)【世界遺産】ワルシャワ市内観光
クラクフから360Km、4時間半です。
ワルシャワは16世紀にクラフクから遷都し400年ポーランドの首都
として栄えましたが、ナチスにより跡形もなく破壊されてしまいました。
現在の建物は戦後建て直した(復元)ものです。

ワルシャワ蜂起記念碑
 終戦間近の1944年占領下のワルシャワ市民はドイツ軍に対して
 一斉に蜂起し、5,300人が地下水道で街の南部まで進んだ。
 市民は2ヶ月間戦い抜いたが、20万人の犠牲者をだし、
 町の8割以上が灰と瓦礫になりました。ソ連が見捨てたとも。
蜂起記念碑

旧市街を取り囲む城壁バルバカン
バルバカン
ワルシャワ旧王宮
旧王宮
  
旧市街広場には人魚の像があります。
 漁師夫婦(ワルスとサワ)が美しい人魚を生け捕りにした。
 川に帰してやると魚が獲れ裕福になった伝説がワルシャワの由来で
 人魚はワルシャワのシンボルであり市の紋章にもなっている。
人魚旧市街

コペルニクス、ショパン、キュリー夫人はポーランド出身の偉人です。。

聖十字架教会にはショパンの心臓が納められている。
ショパン
天文学の偉人コペルニクス
コペルニクス

キュリー夫人Marie Curie (1867-1934) の生家
 キューリー夫人の論文や実験した道具が陳列されていました。
 これでノーベール賞をもらえる実験が出来たのかと驚くほどの
 粗末な実験装置でした。残念ながら撮影不可でした。
キュリー夫人
キュリー夫人は2回ノーベル賞を受けた。
1903年物理学賞 夫ピエールと放射性元素ポロニウム、ラジウム発見
        (ポロニウムはポーランドに由来します)
1911年化学賞 放射性物質に関する研究、ポロニウムとラジウムの分離
  (4年間で8tのウラン鉱石から0.1gのラジウムを精製した)

キュリー夫妻の放射能の発見はその後の物理・生物・医学に大きく貢献した。
その貢献に対して放射能の単位をキュリーCiが用いられている。
ラドン温泉で知られるラドンはラジウムから生まれる気体という意味です。
   (ラジウムがα崩壊するとラドンになる)

夫ピエールは事故で亡くなり、キュリー夫人は放射線による骨髄性白血病
で亡くなった。彼女の手の皮膚はぼろぼろに赤くむけていたという。

自然科学を研究する人は自然の前で子供のような気持ちで
 いなければならない。目の前にある現象が自分の知っている様々な
 メカニズムの組み合わせに還元できると思うのは予断である


これは科学だけでなく社会現象にも言えることだと思いました。
自分の勝手な予断をもたずに真実に迫ることは難しいことです。



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